Enoshima Baby!!
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■ web連載小説 江ノ島ベイビィ● 第2回

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 父はボクの目の前までやってきて、ボクの頬をグーで殴る。握った拳の中指を突き出しているらしく、当たった左の頬骨の下がかなり痛かった。けれど殴られた程度なら別に倒れるとか泣くとかはしない。さっき出た最後の「魔法」ってなんだろう、とか関係のないことを考えて唇は笑っていた。
「いいか、ここはオレの家だ。お前の生活費もオレが稼いだ金だ。出て行け。今すぐ学校行け。ちゃんと学校行け」
 興奮したときの父は、話に整合性がなくなる傾向があった。夜十一時の今すぐに学校に行っても、それはちゃんと学校に行ったことにはならないと思ったけれど、口答えすると余計に話が長くなる。殴るなら殴られるに任せてその後の成り行きを従容として受け入れるのが、この家での上手な生き方だ。殴られるのは痛いけど、我慢していればそのうち怒りも収まって終わるし、父だって鬱憤ばらしでホームレスをボコっているわけではない。実の娘を教育のために叱っているのだから、たいていは一発、調子にのって二発程度だ。
 力はたまに加減できていないときがある。この間はアザができた。でも、その時にはボクはすでにひきこもりだったので、関係なかった。アザを気にした母のサービスがやたらとよくなって、買い物だのなんだのをしてくれて却って得した気分になった。そのアザは、今回、殴られたのとは逆の方の頬、鼻の脇にまだ少し残っている。
 そろそろ母が出てくるかなあ、と思ったころに廊下の明かりがついた。上気して目の潤んだ父の顔が、くっきりと目の前に現れる。廊下の奥の方で、母がこっちを見ている。
 とばっちりを食らうので母はボクがしかられているときには口も手も出さない。ボクだって、小さい頃には多かった夫婦喧嘩を止めに入ったことがないので、それを非難するつもりはない。ある日、どこかの国のミサイルが頭の上におっこちてきても普通の人にはどうしようもなく結局死んじゃうぐらいに、力のある人からない人への暴力は止めようのないことだ。
 いつもの父は暴力的な人ではないけれど、怒ると結構、乱暴なことをする。次男坊でむこうっ気が強いのだそうで、夫婦喧嘩では、醤油の瓶を母めがけてなげつけたこともあったし、キレて窓ガラスを割ったこともあった。日頃は勤勉な銀行員で、休日には近所のおばさん相手に「ああ、どうも」と愛想良く会釈している。
「どうした、言い訳しみろ。できないのか」
 言い訳をしなければならないらしいけれど、なにを言っていいものなのか分からないで口ごもる。
「……あ……ええと、その……」
 そしてまた父は怒鳴る。
「なんだ。学校行け、ひきこもり。ニート、バカ、ブス、ブスバカニート」
「……お父さん……その、今、夜だから……」
 夜だから、の後には、うるさくしてごめんなさい、ばたばた階段を下りたりしてごめんなさい、と続く予定だった。
 けれど運が悪いことに、そこでまたボクの頭にバグが発生した。続く言葉が出てこない。
 父は自分が夜中に大声を張り上げていることを非難されたと感じたらしい。火の注がれた怒りを全く隠すことなく、すぐ目の前のボクを軽快なフットワークとまくしたてる早口で罵倒する。
「なにが夜だ。オレは情けないよ、え? 学校行け、このひきこもり、ニート、ブス、失敗作、本当にお前は失敗作だな。死ね、いっぺん死んで出直してこい、ブス、ニート、ひきこもり、オレの人生はメチャクチャだよ、え? 会社でも言われるよ、死ね、失敗作」
 バグで正常に働いていないボクの頭は、「父ちゃん情けないよ、って、なんかどこかで聞いた台詞だなぁ」などと思っていて、どんな言葉にも現実感がない(後でググってみると「父ちゃん情けないよ の検索結果 約 873 件」だった。)。
 「失敗作」は、この家でのボクのあだ名で、ひきこもりを始めたボクに、父がつけた。自分で考えたこのあだ名がよほど気に入ったのか、会うたびボクは父からあだ名で呼ばれている。
 ある時は、会社から帰って来た玄関先で、ただいまの代わりにこやかに「よう、失敗作」。
 ある時は童謡のメロディに乗せて「葉月はね、失敗作だと言うんだよ。ダメだこりゃ」。
 そしてまたある時は、ラップみたいに早口で「失敗作、死ね、ブス、死ね、失敗作」。
 死ねと言われても別に死ぬ気にはならない。「死ね」と「ブス」は父が自分より弱い立場の女性とケンカする際の常套句で、母との夫婦喧嘩でも頻出の単語だということを知っていれば、ショックはそれほどはない。



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